1940年には量産が開始される。当初は同様のコンセプトを持った兵器が存在しなかったために単に「突撃砲(StuG)」と呼ばれていた。中戦車であるⅢ号戦車を流用した車台には、クルップ社の75mm砲が固定砲台と共に搭載されていた。回転砲台を搭載しないことで前面装甲を分厚くすることに成功し、主砲の砲弾は防御陣地だけでなく戦車の装甲をも破壊することができた。
当初は歩兵支援の用途のみが想定されていたが、ロシア軍の重装甲を持った戦車と遭遇したことで改良が迫られることになる、T-34などの強力な敵兵器と渡り合うべく、車台及び砲身の装甲は強化された。しかしながら、過度の装甲は機動力を犠牲とするため設計当時の目的であった歩兵戦闘に支障をきたすとして、あくまで頻繁に遭遇する戦車に対応できるだけの装備が与えられた。
やがてドイツ軍の生産設備が連合国の空爆によって破壊され突撃砲の生産に支障が生じるようになると、代替機としてヘッツァーが生産されるようになる。こうしてⅢ号突撃砲の量産体制は終焉を迎えたが、歩兵戦闘における優位性は前線で重宝され大戦末期に至るまで利用され続けた。